just an old occurrence* -73ページ目

少年犯罪の凶悪化?

 最近、少年犯罪が問題になっているが、犯罪の検挙数が上がっているわけではない。むしろ下がっているぐらいで、人口比を見ると確かに上がっているが、特筆するぐらい上がっているわけではない。


 それではなぜこのようにニュースでは問題になっているのだろうか?

 それは、一般人が理解できないような凶悪犯罪または猟奇的と言われるような犯罪があるからです。つまり、ニュースになるような、面白さがあるのです。


 しかもその犯罪には昔の犯罪よりも物語が少ない。つまり突発性の犯罪が多いのです。しかも絶対犯罪なんか起こさないだろうというような人が犯罪を起こしたりする。そしてそのような犯罪が起きないかと親たちは異常に気にしているのです。


 この現象の問題は、月並みで申し訳ないが親たちにあると思う。親が子供に倫理を教えてないのではないか?最近12時ころにレンタルビデオ店にビデオを借りにいくと、小学生くらいの子供を連れた親がたくさんいる。僕が小学生のころは、9時ぐらいに無理やり寝かされていた。


 これは僕の意見だが、親と子供が友達みたいな関係になっていて、厳格に倫理を教えるような立場に親が立てなくなっているのではないでしょうか?


 つまり、親が親としての責任がなく、子供のような心境で子供に接しているのではないでしょうか。


 僕はこれをだめだと切り捨てるつもりはありません。ただ、この状況にあった、教育システムまたは管理システムを構築しないといけないのではないのでしょうか。


 僕は、住基ネットや監視カメラの問題は反対はしていませんが、こういう状況に合わせて繊細に構築していくべきだと考えています。決して完全管理社会にはすべきではないとは思いますが、少しは必要な事とは思います。

 なんかいつも日記書こうと思って書いているのに、社会問題や現代思想(もどき)について書いちゃってる気がします。なんかまわりで何も起こらないからかけないんですよね。俺が鈍感なだけかもしれないけど…

コミュニケーションと温度差

 最近コミュニケーションが困難になってきたと感じませんか?


 たぶんそれは、絶対知としての哲学が崩壊(うまい言葉が思いつかなかったので、東浩紀の、郵便的不安たち# から引用。-たぶん「大きな物語の崩壊」(『ポストモダンの条件』J・F・リオータール)と同じような意味-したからです。つまり、世の中が細分化して、コミュニケーションをとるには、細分化した分野を横断する知識が必要になったのです。


 そしてそれは、違う分野の人どうしが会話する時に温度差となって現れてしまうのです。この温度差は、大きくなると、カルチャーショックのようなものになります。


 そして普通に会話しようと思うと、(いろんな意味で、少しの)強引さが必要になります。


 まあでも、普通の人は意識することなくできているんですけど、これからさらに細分化が進むとさらに難しくなってきます。


 そしてこの文章を書いた僕の目的は、ただ危機感をあおってみたかっただけです。


 「ATフィールドをなくすには人類補完計画を実行するしかない!!」なんてくだらない事しかいえません。すみません。

著者: 東 浩紀
タイトル: 郵便的不安たち#

八ケ岳

 土、日と八ケ岳付近に山登りに行ってました。山登りは三年目ということで、楽な山登りを期待していたのですが、かなりきつかった。


金曜日茅野駅に泊まったのだが、寝るときは僕達(五人)しかいなかったのに、午前四時に起きると三十人ぐらいの人がいてびっくりした。聞けば三時の電車できたらしい。屈強な人たちだ。


朝五時にタクシーで登山口に向う。途中メルヘン街道というかなりくねくぬした道路で、運転手の下手な運転と相まって、正に頭がメルヘンな感じだった。登山口の白駒池入り口から、ひたすら登り、とにかく登り地味な登りと岩場にへとへとに疲れる。やっと天狗岳に着いたら天気図のラジオ放送まで時間がない。


2645.8mの眺めを少しだけ楽しんだあと小屋まで歩く。ぎりぎり天気図が取れ、明日は晴れか曇りと予想する。

 1日目は午前六時位から登り始めて午後四時ぐらいまで歩いた事になります。休みながらといってもさすがにちょっときつい。

次の日は曇りだった。朝二時半に起きて、三時半までにテントをしまって用意をし、出発する。今日はしょっぱなから硫黄岳に登るが、昨日高度をかせいであるので、登るのはたいした事ないが、登るにつれ風が強くなる。頂上はとても風が強く、十分もたてば寒さに体が縮まる。写真は硫黄岳の頂上にある無人の小屋…といえないほど小さいもので、入り口が小さすぎて手をつきながらじゃないとは入れない。ここには去年来た時も入った記憶がある。その時も風が強く(確か台風が迫っていた)中でお茶を沸かして飲んだ。


 硫黄岳を下りる時聞き覚えのある歌が聞こえる。うちの大学の応援歌じゃないか!しかも女の子がいっぱいいる。くそーうらやましい!うちなんて女の子はいなくて困ってるのに! …

自分の意見を言え!に反対!!

 飲みの席で出た話だが、僕は自分の意見を持たないように勤めている。そうする事によってもちろん僕には利点と欠点があるのだが、最大の利点は、たくさんの意見をとりいれることができることです!
 
 高校生の時、僕は完全に「小林よしのり」の、『ゴーマニズム宣言』にはまっていた。その時の僕は、自分の回り全てが敵のように思えて、自分の周りの人を全て論破し、誤った戦争観を正してやろうと本気で思っていた。そして本気で絶望し、キャッチャーインザライのホールデンのように、「誰も僕を知らず、僕も誰も知らない所へいって、目と耳をつぐんだ人間になろうと考えていたんだ」といったような心境にもなった。
 
 しかし自分の考えというものがなかったとしたらどうだろう。僕はもう絶望する事はない。ただ賛否両論の意見を聞いて、より正しいと思ったほうを選ぶだけでいいのだ。
 ただしいつもいいほうが選べているかどうかはわからないが、引用する事を恐れる事は全然なくなるのです。
 また僕に、情報というもの全て正しいわけではないと忠告する人もいるが、たぶんその事は忠告した人よりも僕のほうが理解していると思う。テレビや新聞で扱われている情報,データなどはそのメディアの主張によって捻じ曲げられて解釈されたり、場合によっては改ざんされたりしている事があるということは十分理解しています。忠告してる人よりゼッテー分かってるよ!

ねじまき鳥は僕のねじを巻かなかったのか?

 今僕は暗いトンネルの真っ只中にいるような気がする。そしていつ出られるかわからない。なんか負のエネルギーに取り憑かれている気がする。
 もっと明るい性格になりたい。『ねじまき鳥クロニクル』に出てくるような流れの届かない周りを壁で囲まれている路地にいるのかもしれない。自分を変えたいまわりも変えたい。でも性格なんて簡単に変わるもんじゃないよ。社会人デビューの準備でも始めようかなー。
 どんなに落ち込んでいたって、それを表現しないと周りには相手にされないんだよね!やっぱり雄弁に語るほうが生きていく上でかなり得ですよね。
 
 これがあなたのなる機械の体です。 ネジですネジの型をした機械の体!!  
  ネジの体なんて!!冗談じゃないや!!  もし拒否するとメーテル様が極刑に処されます…死刑!!(銀河鉄道999わが青春の銀河鉄道より引用。ちなみにタイトルは村上春樹の『ねじまき鳥と火曜日の女たち』から改ざん引用)