just an old occurrence* -72ページ目

リトルボーイ?

 村上隆のリトルボーイ展は、すごいプロジェクトだと思う。

 村上隆の作品で、原子爆弾のきのこ雲が上がっている中、奇妙なアニメ絵のキャラクターがジャンプしているものがある。この作品は、アメリカが原子爆弾を日本に落とした事によって、奇形として、アニメなどの日本文化ができた。と読み取れる。そもそも「原爆の投下と、その後のアメリカの政治介入に対する依存が、日本のオタク・カルチャーを産む原因になったのではないか?」 という村上隆の考えからきているらしい。ある意味恐ろしい考え方で、その事を発言するのには、かなりの勇気がいると思う。

 村上隆のスーパーフラットという言葉はかなり興味深い。アニメという二次元の空間で、昔はどれだけ立体的な表現ができるかを目指していたのに、十分立体的表現が発達した現在、かえって平面的な表現になっている。より立体的に表現しようとすれば、近くに焦点を合わせたければ遠くがぼやけるのが普通だが、両方に焦点が合っていたりする。しかし、このアンチリアルな方法によりアニメの可能性が広がるのです。

 村上隆のすごい所はその作品が海外で受け入れられているところなのです。はっきりいって日本のアニメファンには受けはかなり悪いです。それは、アニメ独特の表現、つまり目を異常に大きく書くなど(このような表現から奇形なのだが)をさらに大げさに描く事によって気持ち悪いぐらいデフォルメされたアニメ風の絵を作り出しているからです。つまり村上隆の作品は、優れたサブカルチャー批判なのです。

村上 隆
スーパーフラット

コミュニケーションと温度差2

  コミュニケーションに温度差が生まれるのは、微妙なニュアンスが読み取れないからじゃないでしょうか?

 言葉には、明示的意味(デノタシオン)と暗示的意味(コノタシオン)があり、コミュニケーションの断裂が起こるのは、この暗示的意味が理解できないからです。この暗示的意味を理解するには、同じような思想を持つ人たちのところにいなければならないのです。

 ヤンキーにはヤンキーの、小学生には小学生の言葉の使い方があります。そしてその事をエクリチュールといいます。現代社会はエクリチュールがさらに数が増え、そのためコミュニケーションはさらに困難になるのです。

 それではこのことを解消するためにはどうすればいいのでしょうか。記号学で有名なロラン・バルトは、白いエクリチュール(完全に自由なエクリチュール)というものを探して、最後に日本の伝統文化に行き着いたといいます(『表徴の帝国』)。

ブログペット

 ブログペットのメロメロパークのへんな(かわいい)生き物が、急に進化した!!しかもへんな事しゃべってる。「かける」とか「実家だ」とか「!?」とか意味わからないです。空にはUFO飛んでるし…今まで何も起こらなかったから、急にいろいろ起こってびっくりしました。(携帯では見れないものです)


☆☆☆☆


 昨日サークルの後輩に、「一人旅って楽しいんですかねー」ときかれたが、一人旅した事ないからわからないよー。でも絶対楽しいと思う。


 僕は沢木耕太郎の「深夜特急」が好きで、こんなたび(インドからロンドンまで乗り合いバスで行くという旅)したいなーとよく思う。「深夜特急」は、大沢たかお主演でドラマにもなっていて、そっちは実際の各国の映像が実際見れていきたくなります。


 外国じゃなくても、日本国内でも宮沢賢治の出身地である岩手県は、一度いってみたいとは思っているもののまだいけていない。岩手山も登ってみたいなー。イギリス海岸も行ってみたいなー。


ソニーミュージックエンタテインメント
劇的紀行 深夜特急
沢木 耕太郎
深夜特急〈1〉香港・マカオ

北野武フィルム

先日北野武の、『HANA-BI』をDVDで見ました。今まで、北野武の映画は、『Dolls[ドールズ]』『BROTHER』『キッズリターン』『座頭市』と見てきて、一貫していえるのは、淡々とした静かな流れの中に、暴力(一撃必殺)があることです。これらの作品の中には必ずやくざが登場し、そして『HANA-BI』では警察が出てきます。


 そして武の映画には感情の起伏さえ無いようにに感じる。主人公は一貫して無表情なのです。


 北野武の映画に言葉はほとんど出てこない。それが、『Dolls[ドールズ]』では映像の美しさと、悲劇の増幅になっているし、『BROTHER』の主人公の恐ろしさ、強さになっています。


 『HANA-BI』では主人公は武なのだが、主人公は元警察でありながら、びっくりするほど簡単に暴力に訴える。しかも生半可なものではなくて、確実に相手を黙らせるぐらいに。そして話しかけられてもほとんど全

くといっていいほどしゃべらない。無言か手が出るか、その二つに一つしかないみたいに…


 精神科医の斉藤環氏は著書の『フレーム憑き』で、武の映画には、コミュニケーションが欠けていると書いている。コミュニケーションを拒否するため暴力を用い、そしてその暴力さえも一撃必殺という語り合いを拒否するものなのです。


 そしてこのことは、バラエティーに出ている時のビートたけしの時もそうで、あまり話しを続けようとせずギャグに走る傾向があります。


 しかし北野武の映画のすごさは、言葉そして感情が抑えられ、暴力が多い作品であるにもかかわらずそこに感動があり、ドラマがある点だと思います。これだけコミュニケーションや感情を排しながら、これだけドラマティックな作品をつくる北野武はほんとに天才だなとつくづく思います。

 

斎藤 環
フレーム憑き―視ることと症候
バンダイビジュアル
HANA-BI

銀河鉄道に乗って

 僕が、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出会ったのは、小学生のころプラネタリウムでだった。四国の愛媛県今治市という所に実家がある僕は、50キロ離れた松山市によく親の買い物のついでに車で連れて行ってもらっていて、母親は必ずといっていいほどコミュニティーセンターにあるプラネタリウムに僕を降ろして入場料を払っていってくれた。

 

 そこで、『銀河鉄道の夜』が放送されていたわけである。星星や、天の川、銀河鉄道の静止画がプロネタリウムの球面にスライドのような感じで映し出され、透明な言葉とジョバンニやカンパネルラといった明らかに日本ではないような表現がちりばめられた美しい世界観と、それとはうらはらの、畏怖のようなものを同時に感じて、一気に宮沢賢治が大好きになってしまい、宮沢賢治全集の絵本を買ってもらったりした。

 

 そして宮沢賢治関係のものは、アニメ、漫画関係といろいろ見たが、特に松本零士の『銀河鉄道999』そして、ますむらひろし『アタゴオル』の初期は、宮沢賢治の魅力に近い漫画だと思う。

 

 次に中沢新一の『哲学の東北』を読んだ時衝撃を受けた。この本の大部分は、宮沢賢治と南方熊楠に関するものなのだが、この本では、宮沢賢治の作品はエロティックなものだと指摘されているのだ。僕は、宮沢賢治の作品を清く聖なるものだと思っていたから、にわかにはこの指摘は信じられないものだった。

 しかし中沢新一は、宮沢賢治が嫌いでそんな事を書いているわけではなく、むしろその文章からは宮沢賢治の作品への愛を感じる。

 中沢新一によると、「ほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん焼いてもかまはない」という究極の贈与の思想は、究極のエロスなのである。なぜなら自分の全てをささげると言っているのですから。

 僕はこの本を読んで、『銀河鉄道の夜』に僕が感じていた畏怖のような感覚は、このエロスから来るものだったのではないかと漠然と思うようになりました。そしてそう思うようになってからさらに宮沢賢治の作品が好きになりました。


 あと、新潮カセットブックの『銀河鉄道の夜』雰囲気が出ててすごくいいと思う。僕はiPodminiに録音して持ち歩いてます。岸田今日子が朗読しています。

著者: 中沢 新一
タイトル: 哲学の東北